浜松にコバケンが、上原彩子が。

浜松交響楽団第60回定期公演は、指揮に小林研一郎ソリスト上原彩子という超絶ビッグネームでした。
上原彩子が5月には出産予定というニュースを耳にしたときは、おいおいこの演目はどうなる、と思わず口走りましたが、まったく普通にやっていますね。これを最後に産休でしょうか。


エグモント序曲から、はやパワー全開。初めて見る生のコバケン。いやあ、話どおりに踊る、跳ねる人。
格好良さとはほど遠い(失礼)指揮ぶりではありますが、やはりその熱気には圧倒されるばかり。
こういう人が海外で功成り名を遂げているのですから、クラシックも案外お堅いばかりのものでもないわけですよ。


そして、上原さん登場。おお、やはりそれとわかるお腹。
ピアノ協奏曲は、モーツァルトの22番変ホ長調。ほとんど知らない曲。そのための先入観もあってどうしても地味な音楽と聴こえてしまう。
上原さん(生で見たアーティストは、どうしても「さん」になってしまいますね)といえば、パワフルぶりが本領(と勝手にイメージづけていますが)。が、それは決して繊細な表現がダメだなどということではないわけで、2楽章3楽章では、しっかりとモーツァルトの歌を満喫しました。
彼女の出産予定の話題がどこかで触れられるのだろうかと思っていれば、モーツァルトのあとで、コバケンさんの口から発表。
笑顔がまぶしゅうございました。どうか元気な赤ちゃんに恵まれますよう。


そしてそしてメイン。「巨人」。
交響曲第1番」に、とてつもない才を感じる作曲家といえば、やはりマーラーショスタコーヴィチ
そのマーラーだ。「第1番」にして、なんとよくできた曲。なんと「僕らがよく知っている、マーラー」になりきった曲、と、僕がずっと感じていた一曲。
2楽章に驚く。冒頭の低弦から、全開。こういうものなのか? そこからも次から次へと、迫力で押す演奏が続く。よくできた曲、と感じさせる構築美とは無縁だ。僕がこの曲に抱いていたものが、次から次へと崩されていく。
しかし、ああそこはそうじゃないよ、と不遜なつぶやきを漏らす暇も与えてはくれない。これは、CDじゃないのだ。
それでいて、フィナーレで1楽章の主題を回想する最初のところ。まるで9番の終楽章を聴いているような感覚にさせられる。この寂寥感。
いや、9番の終楽章、というのはさすがに言い過ぎか。9番の終楽章は、寂寥感、などという陳腐な言語化は許されない。この、「巨人」のフィナーレは、寂寥感、とあえて言い表してしまってもいいと思った。
もちろん、この演奏を貶めているんではない。何度も、何枚ものCDで聴いてきたこの曲に寂寥感を感じるなど、初めてだ。
拍手は鳴りやまない。楽団1人1人を立たせて、笑いも振りまきつつ、朗々と舞台挨拶を進めるあなたを見ていれば、ファンになってしまいそうな気持ちが抑えられないではないですかまったくもう。


久しく忘れていた、まったくタイプではない子に恋をする感じ。
本当は、「残念なことに聴衆のレベル低すぎ」という現実もあったんですが、そんなことより演奏を思い出すほうがずっと幸福ですね。まったくありがとうコバケンさん。