有名どころですが「おおきな木」(原題「The Giving Tree」)
- 作者: シェル・シルヴァスタイン,Shel Silverstein,ほんだきんいちろう
- 出版社/メーカー: 篠崎書林
- 発売日: 1976/01
- メディア: 単行本
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ああ、横で家人が「鋼の錬金術師」見てますが、「何かを得るには相応の代価を払わねばならない」の原則などどこ吹く風、とばかりに、
- 何ひとつ代価を求めず、少年に何もかもを与え続ける木と、
- 何ひとつ代価を払わず、木に何もかもを与えられ続ける少年
の、あの話。話だけはご存知の方も多いでしょう。
「プリキュア」でも「ぴちぴちピッチ」でもないこの一冊。最初は六歳女児にずいぶんとご不興を買ってしまったが、さいわいにして「おもしろい」の評価。今のところ、社交辞令ではないように受け取れる。
がしかし、この話、やはり読めば読むほどに不気味だ。初めて読んだときは、言い知れない感動を覚えた、と思ってはいたけれど、どこかに割り切れないものがあった。何だろう、これは。どこかが、しっくりこない。と、ずっと感じていた。
- 木の、この無私っぷりは、もはや母親が子(ただし、成人前の子に、ほぼ限定)に注ぐもの以外にはほとんどあり得ぬもの。
- 木と少年以外に、終始、誰ひとりとして顔を見せない。
- が、少年は、自分の人生の何もかもを木に伝える。恋の成就、人並みの幸福への願望、愛するものとの別離、そして、何もかもに疲れ果てたこと。
- けれど、木には何もない。木が少年を待ち続ける間に、少年は大人になり、年老いる。
- 木は、「本当に」、少年に何もかもを与え、「それでうれしかった」と思う以外のことを、「本当に」、何も知らなかったんだろう。
木は、不気味とは感じない。木にだって、感情移入の余地がいくらでもある。
が、少年の、あまりの当たり前さ加減に対する、木の、あまりのファンタジア加減。この落差が、どうにも不気味極まりない。
餓鬼に、絵本の内容について、「どうだった?」「彼はどうしてそんなことをしたんだろう」という質問はやはりタブーだそうですが、今のところ、この本を何度も読んでもらいたがり、ひとりで読んでもいる六歳女児が、子どもの視点から何を感じているのかが知りたい。僕が期待するような答えとはまったく違っているのだろうが、それだけになおさら。
外国の子どもの感想は「木は本当にうれしかったんだろう」が大方。日本の子どもの感想は「木は本当は哀しかったのだ」が大方。それだけに日本の子どもは(ry
と、もはや出典も何だったか覚えちゃいない、どうせ朝日ですか? そもそも外国ってどこですか? どうせキリスト教国限定ですか? な話も聞いたことがあるが、もうこの一言で片付けてOKな愚作、というのも、またひとつの答えなのでございましょうか。