MISTTIMES.com Blog: 2005年の映画ドラえもんは休止

初めて知りました。
腐っても年10億以上の定収に、ただ一年とはいえ別れを告げるというのはずいぶんな英断だというのが第一印象でしが、事情通の方々からすればむしろ遅かった決断といえるのでしょう。
遺作となった「ねじまきシティー(ということは、自分も結構な歳まで見ていたわけで)」の原作を目にしたときは、確かに哀しくなった。何よりこれが、原作、ということに。
掲載紙も作者もタイトルも何もかも忘れてしまったが、こんな漫画があった。

どこにでもいる、日常にくたびれた父親が、半ばいやいやながらに、子どもと映画を見に行く。
クレヨンしんちゃん」の方を見たがる子どもに対し、親の強権をもって「ドラえもん」の方に入る。
ドラえもんが終わると、「いやあ、せっかくの休日に子どもにつき合わされて、たまりませんよねえ」と同意を求める、隣の、別の父親。
その声に、「え?」と眼鏡を外し、「何かいいました?」と答える彼の目には、涙が光っている。
帰路の雑踏の中、子どもの手を引きつつ、彼はつぶやく。
  ここで手を放してしまえば。
  餓鬼は人波に呑み込まれ、もう帰ってくることはあるまい。
もちろん、
  何てね。
  そんなことしないよ。
と続け、彼と子どもは家路に着く。

読んでいた僕にもう子どもが居たろうか。それすらも覚えていないが、おそらくまだ居なかったように思う。
それでも、泣き笑いつつの苦笑いとともに読まずにはいられなかった。確か、「そんなことしないよ」のくだりでは、よくあるように、屈託ない子どもの笑顔を目にして、愚かしい妄想から我に返るといった、そんな描写はないのだ。あくまでたんたんと、「そんなことしないよ」と彼はひとりごちていた。
とまあ、何とも微妙な旨さがある漫画だったが、しかし、ここでの、ドラえもんクレヨンしんちゃんというチョイスにだけは多少の違和感があった。
クレヨンしんちゃんは、「モーレツ大人帝国の逆襲」の前だったか後だったかにせよ、大人をも楽しませるという面で、すでにドラえもんを凌駕していた頃だったように思った。そして、この頃のドラえもんで大人が泣くことは、すでにない頃だったように思った。
けれど、やっぱり、逆でもおかしい。
あくまで、嫌がる子どもを尻目に大人が見たがる方は、この両者では確かにドラえもんだ。クレヨンしんちゃんとは歴史が違う。
さて、映画が再開する二年後。うちでは、一番上の子がすでに小学生。
もしかしてすでにドラえもんを卒業しているのだろうか。さすがにそれはやっぱり、まだちょっと悲しい。