本能寺の変に新資料 光秀側に長宗我部“嘆願” 「四国攻め回避」説を補強
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本能寺の変(ほんのうじのへん)とは、ご存知の通り、織田信長(おだのぶなが)の家来だった明智光秀(あけちみつひで)が、突然、信長に背いた(そむいた)大事件。 1582年6月21日のことだった。

京(京都)の「本能寺」というお寺に泊まっていた信長は、その夜に突然、家来だったはずの、光秀の大軍勢に襲われる。その数は、1万人近くだったと言われている。
そのとき、信長が連れていた兵は、たったの100人ほど。
信長はすぐに、「逃げられない」と知って、そのまま本能寺で自刃(じじん)してしまった。
自刃とは、武士などが戦に負けたりして、自殺することだ。

この本能寺の変は、「日本史の最大のミステリーのひとつ」と言われる。
どうして、そう言われるのか?
それは、「なぜ、光秀は突然、信長に背いたのか?」が、大きな謎だからだ。

その謎を解くカギになるかも知れない、「手紙」が見つかった、というのが、このニュースだ。

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信長は、古い「しきたり」にとらわれず、どんどんと新しいことをやった。
「家来の使い方」も、そうだった。
生まれ育ちや、「家がら」にとらわれず、優秀な家来には、たくさんごほうびをあげたり、大きな領地をあげたり、大事な仕事をまかせたりしていた。

特に有名なのが、豊臣秀吉
秀吉は、天下を取る前は、信長の家来だったが、武士ではなく、お百姓の家に生まれた。お百姓は、その当時は、とても身分が低かった。
秀吉は、お百姓の生まれから、日本で一番偉い人にまで登りつめたわけだけど、信長にとても気に入られて、信長の下で、どんどんと出世していた。
信長の家来でなければ、秀吉は天下人(てんかびと)にはなれなかっただろう。

明智光秀も、信長にとても信頼されていた家来だった。
光秀の生まれ・育ちには、今でも謎が多い。
けれど、武将として、とても優秀だったことは確かなようで、秀吉と同じように、信長の下でどんどんと出世していった。
光秀も、自分を評価してくれ、大きな仕事を任せてくれる信長に対して、とても感謝していたはずで、信長の天下統一のために、一生けんめい働いていた。

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その光秀が、突然、信長に背いて、信長を殺してしまった。
どうしてなのか? 歴史学者の中でも、いろいろな意見がある。

ひとつが「野望(やぼう)説」。
光秀が、信長に代わって天下人になりたい、という望みを持っていて、本能寺で、わずかな兵しか連れていなかった信長を、「今がチャンスだ」と攻めた、という説。

他に、「怨恨(えんこん。人をうらむこと)説」というのもある。
実は、光秀は、とても信長を恨んでいた、という話。
光秀が、信長の命令で、徳川家康にごちそうをした時に、間違えて、腐った魚を家康に出したので、大勢の人の前で信長にとても叱られた、という出来事や、
敵の人質になっていた光秀の母親を、信長が助けなかったために、そのまま光秀の母親が敵に殺されてしまった、といった出来事があったらしい。
でも、こうした出来事も、本当の話なのかが、よく分かっていない。

他にも、「実は秀吉の陰謀だった」「実は徳川家康の陰謀だった」「光秀が、信長の家来でいることに、がまんができなくなった」などなど、色々な説がある。

そのうちのひとつに「四国攻め回避(かいひ)説」というのがある。
今回「手紙が発見された」というニュースで、この「四国説」がかなり有力になった、と言われている。

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「四国説」とは、どういう説なのか?

今回、発見された手紙を書いたのは、「長宗我部元親(ちょうそかべ・もとちか)」という、四国の殿様。
手紙の宛先は、「斎藤利三(さいとう・としみつ)」という武将。
斎藤利三は、光秀の家来だった。

本能寺の変が起きたころ、信長は、日本を統一するために、日本各地の殿様と戦をしていた。
北陸地方を支配していた上杉(うえすぎ)家。
中国地方を支配していた毛利(もうり)家など。

そのころ、四国地方を支配していたのが、長宗我部(ちょうそかべ)家だった。

信長は、最初は、長宗我部元親を攻めずに、従わせようとしていたらしい。
けれども信長は、考え方をかえて、「四国統一まで、あと一歩」だった長宗我部元親を攻めようとした。
元親に対して、「四国統一をやめて、今までお前が手に入れた領地を返せ。そうでなければ、長宗我部家を攻め滅ぼすぞ」と脅かしたらしい。

光秀は、信長と長宗我部家との話し合いをとりもっていたので、信長が四国を攻めることになれば、メンツを失うことになる。
また、光秀と長宗我部家は、仲が良いところもあったらしい。
だから光秀は、どうしても信長の四国攻めをやめさせたくて、ついに、信長に背いた、というのが、「四国説」だ。

今回発見された手紙の中で、長宗我部元親は、「信長の言うことを聞くから、そのことを信長に伝えてほしい」と、斎藤利三に頼んでいた、という。

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本能寺の変は、本当に多くの人々の人生を変え、日本の運命も大きく変えた、と言える。

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信長の長男だった、織田信忠(おだ・のぶただ)は、その時、本能寺のすぐ近くの妙覚寺(みょうかくじ)に居た。
信忠も、わずかな数の兵しか連れていなかったが、父親が死んだ知らせを聞くと、光秀と戦うことを決め、二条城(にじょうじょう)に移った。
脱出することをすすめる家来に「どうせ逃げられない。潔く、ここで腹を切る」と言って、一時間以上、光秀軍と激しく戦ったという。
だが、結局は信忠も、力尽きて自刃した。
信長ばかりでなく、信忠も殺されてしまったことで、織田家は「天下取りレース」からは、完全に脱落してしまったことになる。

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秀吉は、本能寺の変が起きた時、信長の命令にしたがって、備中(びっちゅう。今の岡山県)にある毛利家の高松城(たかまつじょう)を攻めていた。
京から備中高松城は、200キロメートルも離れている。
が、秀吉は、ふとした偶然から、本能寺の変のわずか1日後には、信長の死を知ったという。
秀吉はすぐに高松城攻めをやめた。
信長が死んだことを隠し通して、毛利家と「仲直り」の約束をしたわけだ。
その後、兵たちを率いて、大急ぎで京に戻った。
もちろん、光秀を討つ(うつ)ためだ。

秀吉軍が京に着いたのは、本能寺の変から11日後。
もちろん、車や新幹線なんてなかったから、走って岡山から京都まで行ったわけだ。
これは、その当時としては、信じられないほどのスピード。
この大移動は、秀吉の「中国大返し(ちゅうごくおおがえし)」と言われる。

そもそも、光秀が信長を討つことを決めたのは、「秀吉をはじめとする、信長の家来たちは、みな日本各地で戦っている。だから、自分が信長を倒した後も、すぐに京までは帰って来られないはずだ」と思っていたからだ。
光秀は、信長を討ったあと、京の近くの殿様たちを、少しずつ自分の味方につけていくつもりだった。
だが、あまりにも速く京に戻ってきた秀吉軍と、すぐに戦わなければならなくなった。

秀吉軍と光秀軍とが戦ったのは、京の、山崎(やまざき)というところ。
光秀はこの戦いに敗れ、逃げる途中で、百姓に襲われ、あっさりと殺されてしまった。
本能寺の変から、わずか11日後のこと。光秀は「三日天下(みっかでんか)」と言われた。

信長の他の家来たちの助けをほとんど借りることなく、あっという間に光秀を倒した秀吉はその後、信長の後を継いで、とうとう日本を統一したことは、知っての通りだ。

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今回、発見された手紙に出てきた、斎藤利三(さいとう・としみつ)は、光秀の家来だったから、光秀が山崎の戦いで敗けた後、捕まって処刑(しょけい)されてしまった。
この斎藤利三の子どもの中に、春日局(かすがのつぼね)という、とても有名な女性がいる。
春日局は、徳川家康の孫、徳川家光(とくがわ・いえみつ)の母親がわりになって、家光を育てた人なんだ。

徳川家光は、習ったと思うけど、覚えているかな?
江戸幕府の第三代将軍として、武家諸法度(ぶけしょはっと)という決まりを作って、江戸時代の殿様が、自分の領地と、江戸とを行き来する、参勤交代(さんきんこうたい)の仕組みを作ったりして、江戸幕府の基礎を固めた将軍だ。
家光がこうして、きっちりと日本中の殿様を支配する仕組みを作ったことで、江戸幕府は270年近くも続いたんだ。

その頃は、身分の高い子どもは、自分の母親ではなく、乳母(うば)という別の女性に育てられるのが普通だった。
春日局は、徳川家光の乳母として、家光を、とても厳しく育てたそうだ。
その春日局の父親が斎藤利三斎藤利三の主(あるじ)が、本能寺の変を起こした明智光秀
そんな形で、いろいろな人たちがつながっているんだね。

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もしも、本能寺の変が起きていなかったら、日本は、今とは全然違う国になっていたかも知れない。
そして、光秀がなぜ本能寺の変を起こしたか、本当のところは、やっぱり分からない。
でも、こうした新発見から、いろいろなことを考える余地があるというのも、歴史の面白いところだね。