AWS(Amazon Linux AMI)でRails動かそうとして「io/console (LoadError)」エラーでハマった話

AWSのEC2でクラウドサーバ(Amazon Linux AMI)を確保していたはいいが、長くほったからかしていたので、ちょっとそこでRailsを動かしてみようと思った。


最初から張り切ってApache+Passengerを組み込んでみたはいいが、

$ passenger-install-apache2-module

で、

Your compiler failed with the exit status 4. This probably means that it ran out of memory. To solve this problem, try increasing your swap space: 

というエラーにぶち当たり断念。
t1.microじゃちょっと無理なんですね。

とりあえずWEBrickで、作っては動かし、作っては動かし、そして問題発生。

$ rails generate model order
Warning: You're using Rubygems 2.0.14 with Spring. Upgrade to at least Rubygems 2.1.0 and run `gem pristine --all` for better startup performance.
/usr/local/share/ruby/gems/2.0/gems/activesupport-4.1.4/lib/active_support/dependencies.rb:247:in `require': cannot load such file -- io/console (LoadError)

いきなりmodelの作成からできやしない。

ぐぐれば、

$ gem install io-console

しなさいということなので、

Building native extensions.  This could take a while...
Successfully installed io-console-0.4.2
Parsing documentation for io-console-0.4.2
Done installing documentation for io-console after 0 seconds
1 gem installed

しかし、やはり同じエラー。

ふと、

$ vi Gemfile

で、
一番下に

gem 'io-console'

追記したら

$ rails generate model order
Warning: You're using Rubygems 2.0.14 with Spring. Upgrade to at least Rubygems 2.1.0 and run `gem pristine --all` for better startup performance.
      invoke  active_record
      create    db/migrate/20140814135616_create_orders.rb
      create    app/models/order.rb
      invoke    test_unit
      create      test/models/order_test.rb
      create      test/fixtures/orders.yml

これでようやく解決。

うーん、そういうことなんですか。

それにしてもRailsって、バージョン変わると色々様変わりしてしまうんですね。
Rails 4.0だと、巷にあふれる1.x向けや2.x向けのコードやコマンドが色々使えなくて
「え、script/plugin install じゃダメで、rails plugin install でもダメで、結局gem installするしかないってことですか」とか、くだらないところで時間を無駄にしてしまう。

こういう所が好かれないわけですね彼。

月\540で割といろいろな映画・ドラマ・アニメが見放題のdビデオ。
Chromecastと合わせると、HDMI端子付きのテレビで動画が再生できるようになるので、結構な「ダメ人間製造器」になります。
HDMI端子は、今日びのテレビであれば、まず付いてるでしょう。


dビデオ+Chromecast環境を使いたての頃は、動画再生がしっちゅう止まる現象が見られたのだけど、最近は快適に再生できております。
dビデオアプリがバージョンアップで改善されたのか、ほかの理由なのか、よく分からんですが。


有名なドラマですが、「ハゲタカ」をいっき見。
権利関係の事情なのか、dビデオでは、最初この作品がChromecastで再生できなかったんですが、最近再生可能となったのがうれしいところでした。


見る人を選ぶドラマですが、ハマるとハマります。私もハマりました。
このスタッフ陣は、「劇場版るろうに剣心」や「龍馬伝」で、今をときめいてますが、佐藤直紀氏のBGMが、すごく好きです。


「ハゲタカ」は、劇場版もありますが、ドラマの方の最終回が、ぐっと来るんですね。
いい歳のおじさんが、ドラマのセリフと自分を重ねてしまうというのもちょっとアレですが。


一エンジニアであるところの自分と。
管理職っぽい仕事もしなければならない歳になってしまった自分と。


そこらを振り返ると、「あんたらは、何を作るわけでもないし(以下自主規制)」という、あのセリフがぐっと来るわけです。


誰もにお勧めできる作品ではないですが、やっぱり世評が高いのもうなづける作品です。

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本能寺の変に新資料 光秀側に長宗我部“嘆願” 「四国攻め回避」説を補強
http://news.livedoor.com/article/detail/8970229/
↑ この記事を小学生にシェアするために、背景を思うままに書きなぐってみる。

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本能寺の変(ほんのうじのへん)とは、ご存知の通り、織田信長(おだのぶなが)の家来だった明智光秀(あけちみつひで)が、突然、信長に背いた(そむいた)大事件。 1582年6月21日のことだった。

京(京都)の「本能寺」というお寺に泊まっていた信長は、その夜に突然、家来だったはずの、光秀の大軍勢に襲われる。その数は、1万人近くだったと言われている。
そのとき、信長が連れていた兵は、たったの100人ほど。
信長はすぐに、「逃げられない」と知って、そのまま本能寺で自刃(じじん)してしまった。
自刃とは、武士などが戦に負けたりして、自殺することだ。

この本能寺の変は、「日本史の最大のミステリーのひとつ」と言われる。
どうして、そう言われるのか?
それは、「なぜ、光秀は突然、信長に背いたのか?」が、大きな謎だからだ。

その謎を解くカギになるかも知れない、「手紙」が見つかった、というのが、このニュースだ。

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信長は、古い「しきたり」にとらわれず、どんどんと新しいことをやった。
「家来の使い方」も、そうだった。
生まれ育ちや、「家がら」にとらわれず、優秀な家来には、たくさんごほうびをあげたり、大きな領地をあげたり、大事な仕事をまかせたりしていた。

特に有名なのが、豊臣秀吉
秀吉は、天下を取る前は、信長の家来だったが、武士ではなく、お百姓の家に生まれた。お百姓は、その当時は、とても身分が低かった。
秀吉は、お百姓の生まれから、日本で一番偉い人にまで登りつめたわけだけど、信長にとても気に入られて、信長の下で、どんどんと出世していた。
信長の家来でなければ、秀吉は天下人(てんかびと)にはなれなかっただろう。

明智光秀も、信長にとても信頼されていた家来だった。
光秀の生まれ・育ちには、今でも謎が多い。
けれど、武将として、とても優秀だったことは確かなようで、秀吉と同じように、信長の下でどんどんと出世していった。
光秀も、自分を評価してくれ、大きな仕事を任せてくれる信長に対して、とても感謝していたはずで、信長の天下統一のために、一生けんめい働いていた。

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その光秀が、突然、信長に背いて、信長を殺してしまった。
どうしてなのか? 歴史学者の中でも、いろいろな意見がある。

ひとつが「野望(やぼう)説」。
光秀が、信長に代わって天下人になりたい、という望みを持っていて、本能寺で、わずかな兵しか連れていなかった信長を、「今がチャンスだ」と攻めた、という説。

他に、「怨恨(えんこん。人をうらむこと)説」というのもある。
実は、光秀は、とても信長を恨んでいた、という話。
光秀が、信長の命令で、徳川家康にごちそうをした時に、間違えて、腐った魚を家康に出したので、大勢の人の前で信長にとても叱られた、という出来事や、
敵の人質になっていた光秀の母親を、信長が助けなかったために、そのまま光秀の母親が敵に殺されてしまった、といった出来事があったらしい。
でも、こうした出来事も、本当の話なのかが、よく分かっていない。

他にも、「実は秀吉の陰謀だった」「実は徳川家康の陰謀だった」「光秀が、信長の家来でいることに、がまんができなくなった」などなど、色々な説がある。

そのうちのひとつに「四国攻め回避(かいひ)説」というのがある。
今回「手紙が発見された」というニュースで、この「四国説」がかなり有力になった、と言われている。

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「四国説」とは、どういう説なのか?

今回、発見された手紙を書いたのは、「長宗我部元親(ちょうそかべ・もとちか)」という、四国の殿様。
手紙の宛先は、「斎藤利三(さいとう・としみつ)」という武将。
斎藤利三は、光秀の家来だった。

本能寺の変が起きたころ、信長は、日本を統一するために、日本各地の殿様と戦をしていた。
北陸地方を支配していた上杉(うえすぎ)家。
中国地方を支配していた毛利(もうり)家など。

そのころ、四国地方を支配していたのが、長宗我部(ちょうそかべ)家だった。

信長は、最初は、長宗我部元親を攻めずに、従わせようとしていたらしい。
けれども信長は、考え方をかえて、「四国統一まで、あと一歩」だった長宗我部元親を攻めようとした。
元親に対して、「四国統一をやめて、今までお前が手に入れた領地を返せ。そうでなければ、長宗我部家を攻め滅ぼすぞ」と脅かしたらしい。

光秀は、信長と長宗我部家との話し合いをとりもっていたので、信長が四国を攻めることになれば、メンツを失うことになる。
また、光秀と長宗我部家は、仲が良いところもあったらしい。
だから光秀は、どうしても信長の四国攻めをやめさせたくて、ついに、信長に背いた、というのが、「四国説」だ。

今回発見された手紙の中で、長宗我部元親は、「信長の言うことを聞くから、そのことを信長に伝えてほしい」と、斎藤利三に頼んでいた、という。

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本能寺の変は、本当に多くの人々の人生を変え、日本の運命も大きく変えた、と言える。

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信長の長男だった、織田信忠(おだ・のぶただ)は、その時、本能寺のすぐ近くの妙覚寺(みょうかくじ)に居た。
信忠も、わずかな数の兵しか連れていなかったが、父親が死んだ知らせを聞くと、光秀と戦うことを決め、二条城(にじょうじょう)に移った。
脱出することをすすめる家来に「どうせ逃げられない。潔く、ここで腹を切る」と言って、一時間以上、光秀軍と激しく戦ったという。
だが、結局は信忠も、力尽きて自刃した。
信長ばかりでなく、信忠も殺されてしまったことで、織田家は「天下取りレース」からは、完全に脱落してしまったことになる。

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秀吉は、本能寺の変が起きた時、信長の命令にしたがって、備中(びっちゅう。今の岡山県)にある毛利家の高松城(たかまつじょう)を攻めていた。
京から備中高松城は、200キロメートルも離れている。
が、秀吉は、ふとした偶然から、本能寺の変のわずか1日後には、信長の死を知ったという。
秀吉はすぐに高松城攻めをやめた。
信長が死んだことを隠し通して、毛利家と「仲直り」の約束をしたわけだ。
その後、兵たちを率いて、大急ぎで京に戻った。
もちろん、光秀を討つ(うつ)ためだ。

秀吉軍が京に着いたのは、本能寺の変から11日後。
もちろん、車や新幹線なんてなかったから、走って岡山から京都まで行ったわけだ。
これは、その当時としては、信じられないほどのスピード。
この大移動は、秀吉の「中国大返し(ちゅうごくおおがえし)」と言われる。

そもそも、光秀が信長を討つことを決めたのは、「秀吉をはじめとする、信長の家来たちは、みな日本各地で戦っている。だから、自分が信長を倒した後も、すぐに京までは帰って来られないはずだ」と思っていたからだ。
光秀は、信長を討ったあと、京の近くの殿様たちを、少しずつ自分の味方につけていくつもりだった。
だが、あまりにも速く京に戻ってきた秀吉軍と、すぐに戦わなければならなくなった。

秀吉軍と光秀軍とが戦ったのは、京の、山崎(やまざき)というところ。
光秀はこの戦いに敗れ、逃げる途中で、百姓に襲われ、あっさりと殺されてしまった。
本能寺の変から、わずか11日後のこと。光秀は「三日天下(みっかでんか)」と言われた。

信長の他の家来たちの助けをほとんど借りることなく、あっという間に光秀を倒した秀吉はその後、信長の後を継いで、とうとう日本を統一したことは、知っての通りだ。

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今回、発見された手紙に出てきた、斎藤利三(さいとう・としみつ)は、光秀の家来だったから、光秀が山崎の戦いで敗けた後、捕まって処刑(しょけい)されてしまった。
この斎藤利三の子どもの中に、春日局(かすがのつぼね)という、とても有名な女性がいる。
春日局は、徳川家康の孫、徳川家光(とくがわ・いえみつ)の母親がわりになって、家光を育てた人なんだ。

徳川家光は、習ったと思うけど、覚えているかな?
江戸幕府の第三代将軍として、武家諸法度(ぶけしょはっと)という決まりを作って、江戸時代の殿様が、自分の領地と、江戸とを行き来する、参勤交代(さんきんこうたい)の仕組みを作ったりして、江戸幕府の基礎を固めた将軍だ。
家光がこうして、きっちりと日本中の殿様を支配する仕組みを作ったことで、江戸幕府は270年近くも続いたんだ。

その頃は、身分の高い子どもは、自分の母親ではなく、乳母(うば)という別の女性に育てられるのが普通だった。
春日局は、徳川家光の乳母として、家光を、とても厳しく育てたそうだ。
その春日局の父親が斎藤利三斎藤利三の主(あるじ)が、本能寺の変を起こした明智光秀
そんな形で、いろいろな人たちがつながっているんだね。

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もしも、本能寺の変が起きていなかったら、日本は、今とは全然違う国になっていたかも知れない。
そして、光秀がなぜ本能寺の変を起こしたか、本当のところは、やっぱり分からない。
でも、こうした新発見から、いろいろなことを考える余地があるというのも、歴史の面白いところだね。

名前しか知らなかった馬でしたが

最後の頃の記憶は、テイエムオペラオーの我が世の春。
ひたすらキングヘイローに肩入れしていたクラシックは何年だったかしら。


以後、めっきり競馬から離れてしまいながらに、デルタブルースという馬は気になっていた。
名前のかっちょよさ、ダンスインザダークの血、そしてステイヤー不遇の時代に、遠国に活路を見出すという生き方。いや、馬が選んだわけじゃないけど。


そして歴史的快挙。


http://www.netkeiba.com/news/?pid=news_view&no=16772&category=C


メルボルンカップって、ハンデ戦なんですね。とはいえ、デルタが7番人気、ポップロックが1番人気というこの記事は本当なんでしょうか。


しかし、マスコミの扱いのなんと小さいことでしょう。ほとんど無視に近い気が。ディープインパクトよりもよほど明るいニュースなのに。


競走馬ってのも辛いもので、走って、走って、1着になる以外に、生き残る術は(ほとんど)ない。
それなら、短距離でダメなら長距離で輝ける、くらいの選択肢があってもいいですよね。


それとも、今はあまりステイヤー不遇とは言わないのかな。
浦島状態で触れる昔の趣味というのもまた楽しく。
移ろいやすい性格というのも悪くはないですよ。

Passion For The Future 様 - LocatePC - ノート盗難対策ソフトウェア

マシンがインターネットに接続するたびに、IPアドレスその他を、所定のアドレスに自動的にメール送信するというもの。
ノートの紛失に怯える身としては、いいモノかも知れない。


OSの起動ではなく、ネット接続のたび。
つまり、休止状態で紛失し、アカウントロックを解除されてしまっても、ちゃんとメール送信されるというわけですね。実際に試してOKでした。


が、盗まれて即OSごとクリーンインストールされてはもちろん無意味なので、あくまで気休めにしかならないでしょうが。
メール送信される情報が、どの程度捜査の助けになるかも未知数ですし。


まあ、何もしないよりは、ということで試しています。

浜松にコバケンが、上原彩子が。

浜松交響楽団第60回定期公演は、指揮に小林研一郎ソリスト上原彩子という超絶ビッグネームでした。
上原彩子が5月には出産予定というニュースを耳にしたときは、おいおいこの演目はどうなる、と思わず口走りましたが、まったく普通にやっていますね。これを最後に産休でしょうか。


エグモント序曲から、はやパワー全開。初めて見る生のコバケン。いやあ、話どおりに踊る、跳ねる人。
格好良さとはほど遠い(失礼)指揮ぶりではありますが、やはりその熱気には圧倒されるばかり。
こういう人が海外で功成り名を遂げているのですから、クラシックも案外お堅いばかりのものでもないわけですよ。


そして、上原さん登場。おお、やはりそれとわかるお腹。
ピアノ協奏曲は、モーツァルトの22番変ホ長調。ほとんど知らない曲。そのための先入観もあってどうしても地味な音楽と聴こえてしまう。
上原さん(生で見たアーティストは、どうしても「さん」になってしまいますね)といえば、パワフルぶりが本領(と勝手にイメージづけていますが)。が、それは決して繊細な表現がダメだなどということではないわけで、2楽章3楽章では、しっかりとモーツァルトの歌を満喫しました。
彼女の出産予定の話題がどこかで触れられるのだろうかと思っていれば、モーツァルトのあとで、コバケンさんの口から発表。
笑顔がまぶしゅうございました。どうか元気な赤ちゃんに恵まれますよう。


そしてそしてメイン。「巨人」。
交響曲第1番」に、とてつもない才を感じる作曲家といえば、やはりマーラーショスタコーヴィチ
そのマーラーだ。「第1番」にして、なんとよくできた曲。なんと「僕らがよく知っている、マーラー」になりきった曲、と、僕がずっと感じていた一曲。
2楽章に驚く。冒頭の低弦から、全開。こういうものなのか? そこからも次から次へと、迫力で押す演奏が続く。よくできた曲、と感じさせる構築美とは無縁だ。僕がこの曲に抱いていたものが、次から次へと崩されていく。
しかし、ああそこはそうじゃないよ、と不遜なつぶやきを漏らす暇も与えてはくれない。これは、CDじゃないのだ。
それでいて、フィナーレで1楽章の主題を回想する最初のところ。まるで9番の終楽章を聴いているような感覚にさせられる。この寂寥感。
いや、9番の終楽章、というのはさすがに言い過ぎか。9番の終楽章は、寂寥感、などという陳腐な言語化は許されない。この、「巨人」のフィナーレは、寂寥感、とあえて言い表してしまってもいいと思った。
もちろん、この演奏を貶めているんではない。何度も、何枚ものCDで聴いてきたこの曲に寂寥感を感じるなど、初めてだ。
拍手は鳴りやまない。楽団1人1人を立たせて、笑いも振りまきつつ、朗々と舞台挨拶を進めるあなたを見ていれば、ファンになってしまいそうな気持ちが抑えられないではないですかまったくもう。


久しく忘れていた、まったくタイプではない子に恋をする感じ。
本当は、「残念なことに聴衆のレベル低すぎ」という現実もあったんですが、そんなことより演奏を思い出すほうがずっと幸福ですね。まったくありがとうコバケンさん。

4歳男児が5歳男児になりました

はや5歳……。


なお、1月後には6歳女児が7歳女児になるわけですが。
この年子はもう少し間違えると(6歳女児があと1月誕生日が早く、5歳男児があと1月誕生日が遅ければ)3学年違いになり得ていたというこの不思議。
家人がつぶやくまで、そんなことは思ってもみませんでした。